LOGIN応接室が静かになった。
私は帝人さんを見る。
帝人さんは数秒、久我さんを見たあと、ゆっくり口を開いた。
「前提が間違っている」
「どこがです?」
「小春は俺の弱点じゃない」
迷いのない即答だった。
「俺が小春の意見を聞くのは、小春に逆らえないからじゃない。小春が俺とは違うものを見ているからだ」
帝人さんはテーブルの上の資料へ手を置く。
「俺が数字を見ている時に、小春は人を見ることがある。俺が個別の価値を切り分けた時、小春は全体を見ていることがある。逆もある。必要な判断材料が増えるなら、俺はそれを使う。それを弱さとは言わない」
翠嶺ホテルのことが頭に浮かんだ。
あの時もそうだった。
私が答えを出したわけではない。
ただ、帝人さんとは違うものを見ていただけだった。
「ですが、感情は別でしょう」
久我さんが言う。
「倉橋さんの意見が合理的だから聞
翌日の午前中。 私はいつものように帝人さんの執務室へ入り、会議前に確認してほしい資料を机へ置いた。「こちら、経営企画部からです。修正版が届いてます」「ああ」 帝人さんが資料を開く。 私はその横から、修正箇所を指した。「前回話してた人員配置のところ、ここです。夜間の負担試算も追加されてます」「見せろ」 帝人さんが少し身を乗り出した。 その瞬間。「……近いです」「何がだ」「帝人さんがです」 帝人さんが止まった。 私は自分でも何を言っているんだと思った。 距離なんて、たぶん昨日までと同じだ。 机の上の資料を二人で見る時は、いつもこれくらい近い。 なのに今日は、妙に気になる。「昨日までこの距離だっただろう」「今日は近いんです」「距離は変わっていない」「分かってます」「なら何が問題だ」「私の問題です」 勢いで答えると、帝人さんが黙った。 まずい。 余計に意味が分からない返事をした。「……体調が悪いのか」「違います」「頭痛?」「ありません」「熱は」「ないです」「なら、なぜ急に距離を気にする」 そこを聞かないでほしい。「今日はそういう日なんです」「昨日も聞いたな、それ」「便利なんです」「説明になっていない」 帝人さんは納得していない顔をしている。 でも、それ以上近づいてはこなかった。 むしろ少しだけ身体を引く。「これでいいか」「……はい」「本当に?」「大丈夫です」 何だろう。 その素直さまで気になる。 私は資料へ視線を
翌朝。「小春、この資料を見てくれ」「はい」 帝人さんに呼ばれて執務室へ入った。 それだけ。 いつもと何も変わらない。 机の上には資料が積まれていて、帝人さんはいつものスーツ姿で、いつものように仕事をしている。 なのに。『帝人さんの中にある私の場所を、失いたくない』 昨日、自分で考えてしまったことが頭から離れない。「小春?」「はい!」 声が少し大きくなった。 帝人さんが眉を寄せる。「どうした」「なんでもありません」「昨日からそれが多いな」「気のせいです」「気のせいではない」 私は慌てて資料へ視線を落とした。「それより、これですよね?」「ああ。来期の新規採用計画だ」 助かった。 仕事なら大丈夫。 数字を見る。 採用人数。 配置予定。 必要人員。 研修期間。 そこまで確認して、一箇所で手が止まった。「帝人さん、これ、配属までの研修期間が短くなってません?」「今年より二週間短い」「理由は?」「既存研修の重複を削る。内容そのものを減らすわけじゃない」「なら大丈夫そうですね」「他は」「……現場配属後のフォロー人数が足りないかもしれません。採用数を増やすなら、教える側も必要ですよね」 帝人さんが資料を見直す。「確かに、指導担当者数が前年基準のままだな」「人を採れば終わりじゃないですから」「ああ。修正させる」 いつものやり取り。 私が気づいたことを言って、帝人さんが確認する。 違えば反論するし、必要なら直す。 何も変わっていない。 それなのに。「小春が
あの言葉を口にしてから、私はずっと後悔していた。『小春は特別じゃないと言えばいいのか』『それはそれで嫌です』 どうしてあんな返しをしたんだろう。 帝人さんの執務室へ戻ってからも、頭の中で何度も繰り返してしまう。 しかも。 帝人さんは聞き流してくれなかった。「小春」「はい」「さっきの話だが」「仕事に戻りましょう」「まだ何も言っていない」「分かります」「なら話が早い」「早くありません」 私は机の上に届いていた書類を持ち上げた。「十五時から経営企画部との打ち合わせです。その前に、この決裁をお願いします」「あと二十分ある」「二十分しかありません」「十分で終わる」「何がですか」「小春が、俺に特別ではないと言われるのは嫌だと言った理由を聞く」「十分で終わりません!」 思わず声が大きくなった。 帝人さんが少しだけ目を細める。「やはり理由があるんだな」「そういう誘導尋問やめてください」「誘導していない。小春が勝手に答えた」 その通りなので困る。「別に深い意味はありません」「それは信用しない」「どうしてですか」「小春は深い意味がない時、あんな顔をしない」「どんな顔ですか」「今と同じだ」 ますます困った。 私は書類を帝人さんの前へ置く。「ほら。これです」「誤魔化すな」「仕事です」「俺も仕事をする。その前に答えろ」「しません」「なぜだ」「答えがまとまってないからです」 口にしてから、また失敗したと思った。 帝人さんが黙る。「……まとまっていないだけで、何かは
応接室が静かになった。 私は帝人さんを見る。 帝人さんは数秒、久我さんを見たあと、ゆっくり口を開いた。「前提が間違っている」「どこがです?」「小春は俺の弱点じゃない」 迷いのない即答だった。「俺が小春の意見を聞くのは、小春に逆らえないからじゃない。小春が俺とは違うものを見ているからだ」 帝人さんはテーブルの上の資料へ手を置く。「俺が数字を見ている時に、小春は人を見ることがある。俺が個別の価値を切り分けた時、小春は全体を見ていることがある。逆もある。必要な判断材料が増えるなら、俺はそれを使う。それを弱さとは言わない」 翠嶺ホテルのことが頭に浮かんだ。 あの時もそうだった。 私が答えを出したわけではない。 ただ、帝人さんとは違うものを見ていただけだった。「ですが、感情は別でしょう」 久我さんが言う。「倉橋さんの意見が合理的だから聞く。それだけなら理解できます。ただ、皇社長が彼女を特別に扱っているのは、それだけではない」 私は居心地が悪くなった。 本人の前で話す内容じゃない気がする。 でも帝人さんは否定しなかった。「だから何だ」「仮に誰かが、倉橋さんを使えばあなたの判断を曲げられると考えたら?」「そいつは最初から失敗している」 帝人さんは即座に返した。「なぜ?」「小春は俺へ何かを通すために利用される人間じゃない。本人がまず断る」 私は瞬きをした。 前の交流会で、久我さんに言ったこと。 帝人さんはちゃんと覚えていたらしい。「小春が何かを言う時は、小春自身がそう思っている時だ。他人に頼まれたから俺を説得するようなことはしない」「随分信頼していますね」「ああ」 そこも即答する。「それでも、小春を交渉材料に使おうとする人間が出たら?」「俺
交流会から数日後。 久我さんの名前を、もう一度見ることになった。「帝人さん、久我さんから面談希望が来ています」 予定表を確認しながら伝えると、帝人さんが顔を上げた。「何の用だ」「企業再編案件について意見交換をしたい、とあります」「具体性がないな」「一時間ほしいそうです」「三十分でいい」「半分になりましたね」「案件もないのに一時間も必要ない」 いかにも帝人さんらしい。 私はそのまま予定を入れようとして、ふと手を止めた。「……私、同席します?」「当然だろう」「当然なんですか?」「小春が外れる理由があるのか」「いえ、ありませんけど」 久我さんは前回、明らかに私を観察していた。 帝人さんへの近道になるのか。 私が何か言えば、その判断が変わるのか。 冗談めかしてはいたけれど、何かを確かめようとしていたのは分かる。「気になるなら断るぞ」「え?」「久我に会うのが嫌なのかと思った」「違いますよ。そこまで警戒してません」「ならいい」 帝人さんはそれだけ言って、すぐ資料へ視線を戻した。 私が同席するかどうかを、最初から迷っていなかったらしい。 ◇◇◇◇ 三日後。 久我さんは約束の五分前に現れた。「先日はどうも」「こちらこそ」 応接室へ案内すると、久我さんは私を見て少し笑った。「今日は倉橋さんもご一緒ですか」「はい」「よかった」「何がです?」「皇社長と二人きりだと、三十分が十五分になりそうなので」 否定できない。「内容がなければ五分で終わる」 後ろから帝人さんの声がした。 久我さんが笑う。
交流会も終盤に差しかかり、人の流れが少しだけ落ち着いてきた。 帝人さんは金融機関の役員に声をかけられ、少し離れた場所で話をしている。 私はその間に、今日交換した名刺と予定を確認していた。「倉橋さん」 名前を呼ばれて顔を上げる。 先ほど何度かこちらを見ていた男性だった。「初めまして。久我征一郎と申します」 差し出された名刺を受け取る。「倉橋小春です」「存じています」 穏やかな笑顔。 帝人さんから聞いた名前と一致する。 企業再編を専門にしているコンサルタント。「皇グループとは、以前何度かお仕事をご一緒しました」「帝人さんから伺いました」「もう聞かれましたか」「久我さんのお名前だけですけど」 そう答えると、久我さんは少し笑った。「警戒されています?」「まだ何もされていないので、警戒する理由はありません」「では安心しました」 本当にそう思っているのかは分からない。「先ほどから拝見していましたが、倉橋さんは皇社長にかなり信頼されているんですね」 またその話だ。「仕事では、そうだと思います」「仕事では?」「私は秘書ですから」「でも皇社長は、秘書だからではないとおっしゃっていましたよ」 聞かれていたらしい。 私は困って少し笑った。「帝人さんは、思ったことをそのまま言う人なので」「なるほど」 久我さんの目が少しだけ細くなる。「では、倉橋さんの意見次第で皇社長の判断が変わることも?」 なんとなく。 質問の向きが変わった気がした。「ありますよ」 あえて否定しなかった。「たとえば?」「私の意見に帝人さんが納得した時です」 久我さんが少し黙る。







